未到
藤原頼長
ふじわらのよりなが
fujiwara no yorinaga
略歴
摂関家に生まれ、若くして左大臣に昇った俊英で、その峻厳さと博識ゆえに「悪左府」と呼ばれた人物。父忠実に鍛えられて学問に打ち込み、和漢の書に通じてみずからの日記『台記』に細やかな記録を残した。規律に厳しく妥協を許さぬ性格は宮廷内に敵を作り、兄忠通との摂関家内部の対立を深めた。鳥羽院の死をきっかけに崇徳上皇方に与して保元の乱に加わったが、戦は敗北に終わる。頼長は逃れる途中に流れ矢を受けて負傷し、父忠実を頼って奈良へ向かうも対面を拒まれ、傷が悪化して非業の死を遂げた。学識をもって知られながら乱世に散った悲劇の貴公子として語り継がれている。
未到