土佐藩士で、土佐勤王党の中心にあった知識人。儒学に深く通じ、党内では武市半平太らと並ぶ理論的支柱として尊王攘夷運動を支えた。しかし藩論が佐幕に転じると藩主山内容堂の勘気を蒙り、武市らの一斉投獄に先立って1863年に切腹を命じられた。学識で勤王党を導いた文人志士の悲劇的な最期である。